When life gives you lemons, make life take the lemons back.

表題は最近やったゲームで良いなと思った言葉です。

www.youtube.com

まぁとは言っても発言者はただのサイコパスなんですが...。と言っても今回の内容は表題と全然関係ありません。どうでも良いですが、最近全然~(肯定)みたいな文に対して全く違和感を覚えなくなってきたんですよね、昔はもっとあれ?みたいな感覚だったんですけど。

 

人生で初めてイベントに行きました。僕はアーティストのライブとかにも行ったことが無いので、これが初のタレントのイベントですね。

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自分が高2の時に第4回とかから聞いているラジオで今では140回とかまでやってるので結構初めの方から聞いてると思います。名前を知っている有名人を見たのは初めてで、いつも画面で見てる人が実際に前で立って話しているのを見ると、本当にこの人達はいたのか~と少し感慨深くなってしまいました。(それをその後同期に話したら"初々しい"と言われてしまった。)内容も芸人さん顔負けの面白さで(芸人のイベントとか行ったこと無いけど)行って良かったなぁ~と思いました。最初はチケットの値段見て、高いな~とか思ってたけど払って良かったと思いましたね。これからは興味のあるイベントはどんどん行ってみようと思います。(イベンターになるとかそういうわけではない。)まぁ多分行くとしても、このラジオか、もう一つ聞いてる声優ラジオ関連のそれぐらいしか無いのですが、あとはAimerかEgoistのライブとかはちょっと興味ありますね。

あ、後イベント後にとある同期と超久しぶりにしっかり話せて良かったです。結構変わってしまったのかなと思っていたらあんまり変わっていなかったり、あんまり変わっていないなぁと思っていたら実はしっかり変わっていたり、と。同窓会みたいな幹事でいろんな同期と一堂に会するのも悪く無いですが、2,3人で集まってしっかり話すのも悪く無いなぁ~と思いました。

11月は、山は冬になって行かなくなった分(なのか?)旅行に行きました。具体的に言うと北海道(函館&札幌&小樽)と横須賀に行きました。

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函館の夜景

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小樽の街並み

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アメリカのイージス艦(at横須賀)

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猿島の隧道

北海道は羽田から飛行機で1時間とかで着いてしまうので結構近いですね、空港に1時間前とかに着くにしても家出て3時間後とかには函館の市バスに飛び乗ったり出来るので山よりも近い感覚です。

実は北海道旅行では帰りの飛行機が満席で、1時間40分後の飛行機に譲ったら1万円貰えました。超お得。

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協力金受領書

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封筒

航空会社の社名入り封筒は地味にレアなのでは?なんか珍しい物も貰えてめっちゃ良かった。

特に横須賀の猿島(無人島)は東京から近い割には激エモスポットなので是非是非。かなりおすすめです。

何にも無い全休とか、暇な土日とかにカメラ片手に唐突に旅に行くのは結構楽しいです。癖になりそう。うーんお金欲しい。

学科生活ですが、流石に2カ月半とか経って結構慣れてきました。ですが新しく学科で出来た友人とかは一人もいませーん。まずいですね。うーんまぁ少人数の活動とかも新しく出来たのでなんとかなるでしょう。多分。と思ってたら演習の授業に追いつけなくなってきています。頑張らねば...。

気付いたら12月も半ばに差し掛かってきて1年が終わろうとしています。進振り(今は進学選択だから進択?)を迎えて人生の分岐点を通り過ぎたはずですが、思い返してみると何にもない1年間だったな~という感想です。バイトで自分で稼いだ金で自由に遊べるようになったとか本当それぐらい。まあ今の学科に進むのは理一を受けた時点で決めていたことだからなのでしょう。僕は人並みに物を考えているつもりで生きていたのですが、実は全然そんなことなくてもっとテキトーに生きているのかもしれません。

では皆さん良いお年を。もしかしたら年末付近でまた更新するかもしれませんが。

文化祭に行きました

いい加減記事のお題の後ろに()で副題を付けるのをやめることにした。今回付けるとしたら、(多分来年は行きません)なのだが、なんかいつまでも自分が勝手に決めたルールに縛られているのが馬鹿らしくなった。

あとこの記事は家で何となく書きたくなって感情に任せて書いているのでところどころ文章が変なところがあると思う。ご了承願いたい。

本題に入る前に、別の話を。なんか10月は大学の授業が始まって睡眠時間が結構短くなっていて、大体5h~7hで推移していた。人間の身体って思ったより結構凄くてその生活を2週間ぐらい続けると5hとかでもちゃんと起きられるようになったのだが、そしたらその結果めっちゃ酷い頭痛に一度襲われたこともあって、意図的にちゃんと寝ようと思った。最初のうちは7hとかで目が覚めてしまうので、それで目が覚めたなって思っても二度寝するようにして、それで寝れる日は目覚ましかけずに8h~9h寝るようにしたら大体目が覚める前に夢を見るようになってしまいその結果起きた後の疲労感が酷い。というわけで最近は妥当な睡眠時間を模索している。でも目覚ましはかけたくない...。

というわけでどうでもいい睡眠時間イキリはこのへんにして本題に入る。

 

母校の文化祭に行った。

 

去年は2日目も3日目も文化祭に行ってお祭りを満喫していた気がする。内部ではない、外部からの参加というのは実にその時は7年ぶりとかで不思議な感覚だった。けれどお祭りは十分に楽しめた。

今年は学科の課題だのなんだので何だかんだ忙しくて3日目の午後、それも午後3時以降だけ行った。結果から言えばほとんどの高3演劇班などの出し物は終わっていて時間を余らせてしまった。余った時間は基本内部の時と変わらず競りを見ていた気がする。

今年は去年とは打って変わって強烈な部外者感を感じた。

校内の装飾も、展示もほとんど過去6年間も見てきたものと似たようなものでその背後にある赤本だの、文実だの、木工だのも全部記憶にある。でも唯一そして絶対的に文化祭に至るまでの過程を経験していない。

内部の時の自分は9月から10月までの2カ月間、高3であればおよそ1年間のその過程の結果として、文化祭の3日間が存在するように感じていた。でも卒業生にとってはそうではない、母校に行くと突然そこに完成された見せ物が用意されている。まずそこで強烈な違和感を覚える。

物語に共感するためには、そもそも価値観を共有していなければならない、そして自分には価値観、つまり文化祭に至る過程の数カ月間、もっと言えば筑駒生としての生活、が全くない。

そして、去年はまだ筑駒を卒業したばっかりで、時々筑駒に行く機会もあったのか、まだまだ筑駒生、という意識だったのかもしれないが、今年は2個も下で基本的に知り合いなんかいなかった。大学が後期課程に移り始め、一部曜日のキャンパスが本郷になったのもあって筑駒との関わりは薄くなり始めていた。それに加えて3日目午後のみの参加である。校内の何もかもがもう、お前は筑駒生ではない、と訴えかけているようだった。

そもそも文化祭は3日間しか開催されない。1週間ほどあれば話は別だが、その3日間のために1年間を、しかも受験前の1年間を投げ打つ高3などはっきり言って正気の沙汰ではない。大学に入ってからそこまで全てを投じて熱中したものなんてあっただろうか、いや無い。正直言って羨ましい。もう一度文化祭が出来るなら是非やりたい。文化祭など関係なかった土日はあまりに淡々と過ぎていく。

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筑駒生というアイデンティティを失った今、アイデンティティは筑駒65thとなりつつある。そうやっていつか筑駒65thというアイデンティティから移る日が来るのだろうか。

筑駒に戻るたびに、徐々に色褪せてしまい加工されていく過去の日々を思い出すのはつらいので多分来年は文化祭には行かないと思います。(とか言いつつもしかしたら行くかもしれない。)

さようなら筑駒

追記:自分が高2の時に描いた将棋部の立て看が今だに使われていて、またそれがエモかったです。

 

輪廻転生(来世は何になりたいですか?)

twitter.com

さて

どうやらオタクは現世で徳を積んで来世で美少女に生まれ変わるのが好きらしい。Twitterで検索をかけるとぞろぞろ出てくる。上の検索だと流石に1週間に1件程度だが、「来世は美少女」だけだと10分に1回とかそういうペースでツイートが出てきて流石にビビった。(9/30,20:00現在)

別にそういうオタクをあげつらって笑いを取りたいわけではない、確か高2か高3の時に自分も似たようなツイートをしていた記憶がある。

まぁそんな感じでこの前電車に乗ってる時にふと考えていたのだが、ちょっと思ったのだ、あれ?現実的に考えてそれは意味が無くね?と

皆さんは前世の事を覚えているだろうか。

とまぁなんか怪しい宗教勧誘が始まりそうな一文であるが、まぁ多分一部の方を除いて多くの方は前世の事など覚えていないはずである。前世どころか大半の方は赤ん坊の頃の記憶もほとんど残っていないはずである。え?覚えてないのは僕だけだって?それはちょっと悲しいなぁ...。前世の事を覚えていないのであれば、来世の自分も恐らく現世の自分の事を覚えていないはずである。となると、もしも輪廻転生のシステムが実際に現実にあると仮定したとしても、当たり前だけど現世で頑張って徳を積んで無事来世で美少女になれたとしてもその恩恵を受けるのは現世の自分ではない。前世までの自分の記憶を一切失っている来世の美少女になったはずの自分である。でもだ、前世までの記憶を一切失っている自分をそれをもはや「自分」と呼べるだろうか。夜に寝て、朝目が覚めた後の自分との連続性があるかどうかとかそういう話とは全然次元が違う。トラックに轢かれて異世界転生してチート系能力を得る主人公でも、まだトラックに轢かれたこととか前世の自分が冴えないやつだったことは覚えている分まだマシだ。前世と一切連続しているところが無い分それはもはや赤の他人では無いだろうか?

少し話を変える。宗教自体どうにもならない現世を変えるほどの力は無いため、ほとんどの宗教は現世における一般的幸福を諦めて、(おいお前、一般的な幸福が~とかメインストリームが~とか言ってるお前、本当に一般的幸福は諦めたのか?)死後の世界で幸せになろうという主張が多く、従って死後の世界について説いている。そこで輪廻転生について簡単に調べてみると、(NAVERまとめとWikipediaを10分だけ参照することを簡単に調べると、と言うことを許されるのであれば)どうやら輪廻転生という概念を持つ宗教自体珍しいらしい。キリスト教は死んだ後は復活の日まで土に埋まって待っており、ラッパの音で一斉に目覚め、最後の審判を受けて天国か地獄かに分けられるという。というわけで肉体が消えてしまってはそもそも審判を受けられないため、向こうでは火葬は厳禁であり、埋葬は基本的に土葬である。(埋葬と土葬って土に埋めるからどっちも同じじゃね?と思ったのだが、土葬を指す場合と、火葬風葬土葬など一般に遺体の処置の方法全般を指す場合があるらしい)イスラム教とユダヤ教も死後の考え方は基本的に同じである。というのもこれら3つの宗教の天国・地獄という概念はゾロアスター教の考え方が起源になっているという説もある。

東洋に目を向けてみる。日本でも同様に死んだらあの世に行くという概念がある。ところが仏教とヒンドゥー教だけは特異的に輪廻という概念を持つ。(特異的にと言ったが、この2つの宗教の信者の数を足し合わせたらなかなかな数にはなる。)ヒンドゥー教では上でそもそも無いのでは?書いたような永続的な主体が存在すると主張し、一方で仏教では死と共に主体的な意識は消滅すると主張しているらしい。なら猶更何故誰がために徳を積むのか不思議である。そんな宗教が社会に受け入れられ、多くの人が信じているのだから宗教の「大きな物語」のための側面は偉大なのだろうか?それとも為政者にとって宗教というのは社会を安定させるために便利なのだろうか。

余談だが、このWikipediaから引用すると「輪廻転生は日本では伝統的な死生観と考えられることが多いが、先祖が輪廻転生するなら祖霊は存在せず、先祖祭祀は無意味であるため、この2つは矛盾する面がある。」とある。確かにその通りで笑ってしまった。

matome.naver.jp

転生 - Wikipedia

話を戻そう。主体の意識的な連続が無いのであれば、どうして人々は来世を信じるのだろうか。そして来世の自分のために徳を積むだろうか。これは一般的に言われていることだがやはり、死というものを克服するためではないかと思った。

死というのは生きとし生けるもの全てに必ず、不合理にも、平等にも訪れる。自意識を持つ人間であればどんな人間も死の恐ろしさから逃げることは出来ない。もしも死んで、そこで自分が完全に消滅してしまうというのはあまりにも空しい。自分が存在した証拠が世界から完全に消滅することは死よりも恐ろしいことと語られる。「確認されない死のなかで」(皆さん覚えているだろうか)という文章の中で、人は死ぬ前に自分の名前を残したがる、というのはとても印象的で今でも覚えている。

ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、〈ひとりひとりの死〉がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名で呼ばれなければならないものなのだ。

「みじかくも美しく燃え」という映画を私は見なかった。 だが、そのラストシーンについて嵯峨信之氏が語るのを聞いたとき、不思議な感動をおぼえた。映画は、心中を決意した男女が、死場所を求めて急ぐ場面で終るが、最後に路傍で出会った見知らぬ男に、男が名前をたずね、そして自分の名を告げて去る。

私がこの話を聞いたとき考えたのは、死にさいして、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、〈彼が〉その死の瞬間まで存在したことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局は〈彼として〉死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証しであると知ったとき、人は祈るような思いで、 おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。 いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、〈一個の〉まぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。

ameblo.jp

(死ぬ前でさえ承認欲求が残るとは、承認欲求は何とも恐ろしいものなのだろうか。)

何か自分が現世に存在したという証拠は欲しいし、さもなければ死んだ後も自己が存在していて欲しい、だから来世というのは特別に魅力的な概念なのだろう。来世さえあれば死など全く怖くない。(話が少しそれるが、以前このブログの別の記事でも書いたが、死が恐ろしいのはやはり死んだ後に何があるかわからないのであろう、なら死への恐怖を和らげるだけでも来世という概念は十分でも魅力的では無いだろうか。)

 前世・来世というのは本当に魅力的で、何と水素水もびっくりな前世療法という療法すらあるらしい。

前世療法 - Wikipedia

この記事のなかに書いてあったが、前世の記憶に関してはなかなか面白い次のような話もある。

 前世記憶について、それを思い出す人の前世は大抵、国王や貴族など高貴な身分であり、召使などの低い身分のものであることはない、といった批判がある。そうしたケースでは、前世記憶は願望が投影された虚偽記憶である事になる。ジョン・レナードは「中でも最も人気の高いのはクレオパトラで、男性の場合は大抵、古代エジプトのファラオという形を取る」と批判している。霊媒であったダニエル・ダングラス・ホームは「私は12人のマリー・アントワネット、20人のアレキサンダーに拝謁を賜っているが、過去生で街角の只のおじさんだったという人には一度もお目にかかったことがない」と揶揄している。

 人とはなかなか救い難い存在であるようだ。

アーメン

月記(夏休み振り返り編)

自分のブログを見ると大体月1で更新している?みたいです。1日に1回書くのが日記であればさながら月記と言ったところでしょうか、まぁ6月と7月は特に書くことも書く気も無くてサボってたので月記と書くのはちょっと盛っているのですが...

あと、どうでも良いですけど2月から記事の題名は、「題名(コメント)」にしています。しています、というか意図的にし始めたのは5月からですね。理由は特に無いです。気づいたから何となく続けたくなったからでしょうか。

夏休みを振り返ると3回旅行に行きました。本当はこれに加えて3回山に行くはずだったのですが、全部台風か悪天候で潰れました...。旅行3回のうち高校同期と行ったやつは雨で電車が止まり、台風のせいで行先をいくつか変更しています。それに加えて家族と行った旅行は現地に台風が直撃していた(19号とか21号までは結構日本に来てたのに、22号は本当に自分を狙ったかのように香港・広西省に行った。結果的にギリギリ交わした形になったので、影響はほとんど無かった。あと1日日にちがずれていたら香港国際空港が閉鎖されていて行けないところだった)ので今年の夏は本当に総じて天候に関してついていなかったです。自分は割とオカルトだの神だのそういうのは信じないようにしているのですが、台風21号が日本に行って、南アルプスに行くはずだった山行を潰し、旅行の行程を変えさせ、台風22号が自分を狙ったように香港に逸れた時には流石に神の存在を信じるところでした。とは言え、人間というのは偶然に意味を与えたがる生き物らしいので(人間以外に物事に意味を与える生き物を僕は知りませんが)まぁこれは本当にどうしようもない偶然なのでしょう。考えてみると、総火演に行けた、とか京都旅行の天気はすごい良かったとかそういうのはあまり感謝していなので、単純に人は損失に対する評価が大きいだけなのでしょうか。

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 高校同期がチケット当てた総火演にて、砲塔を同じ方向に向けた戦車かっこいい
 
 

不幸自慢はここまでにしましょう。

近況報告としてはあとは、山が無くなって暇になったのでPythonの勉強を始めました。と言ってもPython、すごい色んな機能があって色んな事が出来るみたいで僕の手に負えない感がすごいです。しかし同時期に色んな人がドルフロをしているのを見て、思わずドルフロを始めてしまいました...。某〇これで、本当に苦い思いをして一生ソシャゲをしない誓いを建てたのですが...。それで勉強は全然進まず関数で止まっています。今は周りの人を見てまた危機感が湧いて来たのでもう1回やろうと思っているところです。

あと他の近況報告としては航空宇宙学科への進学が決定しました。1Sの時は成績微妙だったのですが、終わってみたら思ったより余裕でした。まぁ何とかなるものですね。今日はそのガイダンスをやってきたところで、前期教養の時と比べて教授との距離が近いみたいで、ガイダンスの後の懇親会でそれなりに教授と話せたのはすごく良かったです。航空宇宙では1年後にまた2つのコースに分かれるみたいなので、またそれまでに進路をじっくり、まぁそれほど時間は無いですが、何をするか決めていこうと思います。

では。

近況報告(お久しぶりです)

気付いたら最後に更新してから3カ月が経っていました。時が経つのは早いものですね。

5,6,7月の僕が何をしてたかというと基本的にバイトに勤しんでいた気がします。一番忙しい時には週に10時間とか入れていた気がしました。最初の方はめちゃくちゃ金が稼げる~って言って楽しんでたのですが、そのうち7月にもなると流石に飽きて来ました。え、今日もこんなバイトしたのに、また明日もバイト入ってるからここ来なきゃいけないの...みたいな。そう考えているうちに夏休みに入ったのはすごいタイミングが良かったと思います。社会人になると年がら年中働かなきゃいけない、それも大学生の授業の比ではない頻度って思うとちょっと嫌ですね、社会人の皆さん偉すぎませんか。

あともう一つ思ったのはバイト増えてきてまぁ流石に使えるお金も増えてきたんですが未だに金銭感覚が元のままです。なんか買いたいって思ったものはすぐ買えるぐらいにはなったんですけど流石に物欲はそこまでないですし、月によって使った額の変動も激しいです。果たしてそれで良いんですかね...。まぁ貯金は悪いことでは無いので良しとしましょう。将来一人で生きていくときになった時にきちんとした金銭感覚を持てるかちょっと心配です。

というわけでバイトに嫌気がさしていたころに夏休みが来て京都に旅行に行けたっていうのは結構いいタイミングでした。旅行っていうのは日常生活のしがらみから逃れる手段としてはかなりいいものですね。まぁその中でもバイト関係でLINEだの電話だのが来た時は流石にブチ切れそうになりました。人が気持ちよく庭を眺めている間に電話するんじゃないよ。

京都へはJRの青春エコドリームという夜行バスで行ったのですが、外国人観光客が乗ってるのが意外でした。いや日本まで来たなら新幹線乗って行けよ...。どうせ50$しか変わらないんだし。

京都に着いたらまず伏見稲荷に行きました。やっぱ人のいない観光地っていいものですね。3日目も朝早く起きて嵐山に行きましたが、おかげで全く人のいない千本鳥居と竹林の小径を撮ることが出来ました。

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話は変わるのですが、京都には珍しいお寺もあって、嵐山よりも南の方に鈴虫寺というお寺があります。そこでは一年中、季節に関係なく人工的に飼育された鈴虫の音を聞くことが出来ます。 又お寺の参拝の形式も、お金を払って境内に入って自由に見学するというものではなく、30分に一度ほど観光客がまとめてお寺の中に入り、冷房が効いた広い部屋に集められて、お茶とお菓子を出されてお寺の人の説教?を聞くというものでした。説教と言ってもそんな堅苦しいものではなく、世間話の中に、人と自分を比べないとか、過去にとらわれず今を大事にしようとか、そういう軽い感じのものです。例えばこのような話がありました。花は赤いが、柳は緑。みんな違ってみんないい。みたいな。でも残念ながら人は花と柳ほど違うわけではなく、柳と柳な気がするのです。そりゃ柳しかいなければ自分がどれぐらい綺麗な緑か比べたがるのではと。まぁこんなところで謎に斜に構えてお寺の人の話にけちをつけてもしょうもないのですが。まぁ人と自分を比べないというのは仏教の悟りの中でもかなり段階が上の方なみたいですね。

 慢 - Wikipedia

あと、自分が他人と比べてコンプレックスとなっている部分を改善しようとするのではなく、他人と自分を比べるのをやめる、という認識の方を変えていこうとするあたりが認知療法と似ているなぁとも思いました。

 

他に旅行のいい点としてはやはり現地で直接物に触れることが出来ることではないでしょうか。

 それを始めて体験したのは去年の中国地方の旅行で原爆資料館に行った時のことでした。知識として8/6日に広島に原爆が落とされ、大勢の方が亡くなったことは知っていますし、黒こげになった人が映っている写真もいくつも見たのですがどこか頭の中でそんなことがあったという程度の認識でした。しかし、資料館で原爆の熱で変形したとされたアルミのお弁当箱を見た瞬間に、その場にあった写真や文章、8時15分で止まってしまった時計が本当にあったこととして妙にリアリティを持って感じたのを覚えています。

それを京都で感じたのは法金剛院という花園扇野町にあるお寺でのことです。そこは滝(めちゃくちゃ小さい)が日本最古の人工滝として特別名勝に指定されているらしく、大量の蓮が植わっている池があるお寺です。

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 まぁ実感したのは蓮ではなく仏像です。それまで死ぬほど仏像を見てきたのですが、そこに来て突然昔の人々はこの仏像に祈ってたんだなあという実感が湧いて来ました。昔に比べて今は科学が発展しましたが、今の人々は昔の人に比べて全能感が増えたり、無力感が減ったりするのでしょうか。僕はそれほど変わらない気がします。まぁ数値として評価できるのかって言われたらそれはそれで微妙な気がするのですが。

三十三間堂でも大量の仏像や神像が置かれていたのですが、神って書いてあるくせにどう見てもモデルが人間なんですよね。人間の想像力の限界を感じました。それとも単に人間は神に近い高次な存在だと思いたかったのでしょうか。なんか偶像崇拝に反対する気持ちもわかる気がします。形になった途端に身近で、陳腐なものに思えてくるような気がするのです。

というわけでよくわからないお気持ち垂れ流し記事になってしまいました。2週間には進振りの第一段階発表があります。希望通りの学科に行けると良いんですけどね、それとも本当に希望に出した学科に自分は行きたいって思ってるんですかね、もうよくわかりません。

よい夏休みを。

ポエム(こういうのがお好きなんでしょう)

雨は嫌いだ。頭痛がするから。

 

頭痛と言ってもある一点が痛くなる感じの頭痛だ。プールで間違って鼻から水を吸い込んでしまった時のような頭痛がある一点で起こる。

実験が終わって夜のバイトまで暇なので毎週火曜日は学食で小腹を満たしてから暫く図書館に籠っている。籠っていると言ってもそんなに真面目でないので勉強しているわけではない。大抵スマホを弄っている。

4階の北側の窓際席がお気に入り。景色が良くドコモタワーまで見渡せる。ただ、夏は暑く、冬は寒い。特に今日は、4月下旬に数日連続で夏日だったほど暑かったにも関わらず、かなり冷え込んでいて窓から冷気が流れ込んでくる。昼前に降りやんだはずの雨がまたぱらつき始めて窓に痕を残している。

前日にEEICのガイダンスに行ってきた。本当に行く気が無かったのでとりあえず話を参考に聞きに行く程度けど...正直すっごい面白かった。教授も学生もみんな本当に楽しそうで...。全く行く気なんか無かったのにここも悪くないと思ってしまったほど面白かった。でも家に帰って少しゲームして落ち着いてから気づいた。あそこにいたのはほんの数人の成功例に過ぎない...。自分があの中に入って果たして何になれるのだろうか。自分は何になりたいのか。

進路はずっと悩んできた。高3の春、今思うと理Ⅲから逃げるようにして航空宇宙を目指すことを決めた。幸いにも運にも恵まれてギリギリ点数は足りている。大幅ではないが。もう決めた、学部に入った後の進路も数通りに絞ったはずだったのに...。それでもたまに目移りしてしまう。そういえばお前、こういうのも好きだったよな、と色々なものがちらついてきて。結局進路なんか決まっていなかったのかもしれない。自分のやりたいことを常に意識するのが大事とか考えているくせに結局何もわかっていない。

 

オシロスコープの考察は本当に書くことが無くて10行程度書いたところで手が止まってしまった。これ以上悩んでも出てこないものは出てこないので諦めて来週の予習に移る。ふと顔を見上げると外はもうすっかり暗くなっていて、自分の顔がガラス窓に浮かび上がる。自分の顔は嫌いだ。ニキビなのかそれとも肌荒れなのかもうよくわからない。親に急かされて皮膚科にも行ったが結局良くならなかった。自分の顔をあんまり見たくないので写真も好きではないし、なるべく鏡も見ないように意識している。唯一髭を剃る時だけはどうしても見なくてはいけないのだが。

 

気温が下がって暗くなると色々なことを考えるようになる。それとも今さらになってようやく現実を見ざるを得なくなったのだろうか。

 

雨は嫌いだ。頭痛がするから。

 

幽霊の正体見たり枯れ尾花(575)


この前花粉症が流石に無視できないぐらい酷くなったので病院に行ってきました。花粉症自体は高2から自覚症状があったのですが遂に目が痒くてたまらなくなってしまうほどまでなってしまったので。薬を4種類ほど処方してもらって今4日程使い続けているのですがぴたりと症状が止まっています。流石薬ってすごいですね。あと同時にアレルギー血液検査もしてもらいました。どうでもいいのですが、このアレルギー血液検査ってすっごい高いんですね、確か5000円ぐらい取られました。医者も悪くない職業だなぁ...とか思いました、まぁ絶対ならないんですが。あと血液検査なので大学に入学したときの血液検査ぶりに採血したんですが、まぁ静脈の血液の色っておぞましいですね、赤紫というか、暗い赤色というか、何とも表現し難い色をしています。

ところで血液って随分と特殊な液体だと思うのです。同じ液体と言えど、水道水とかに抱く親近感とか全く抱けませんよね、ついさっき、取り出されるまでは自分の身体のそれこそありとあらゆるところを駆け巡っていた液体だというのに。むしろ採血された血液にはよそよそしさすら感じます。

別の例を挙げてみましょう。例えば髪の毛。人の頭の髪の毛を気持ち悪いと思う人はそれほどいないと思います。というかそういう人は本当に生きづらそうだなぁと思います。じゃあ逆に床に落ちた髪の毛とかどうでしょう。こうなるともう汚さの象徴というかそういうものになってしまっていますね、人の頭の髪の毛は平気だったのにそこから切り離されて床に落ちただけでなぜこんなにも評価が変わってしまうのでしょうか。

というのを説明する文章を受験勉強の時に読んだ記憶があります。題名が思い出せないのが悲しいですが、大体以下のような内容だったと思います。

血液や髪の毛、爪やあと汚いですが排泄物というのは元々は「自分の」体に付属していて完全に「自分のもの」と言える状況でした。しかし一度それが自分たちの体から離れるとそれはもはや「自分のもの」とは言い切れません。かと言って、じゃあペットボトルとかシャーペンとかみたいに完全に「自分のもの」でないもの、「外のもの」か、というとまたそれも言えないと思うのです。つまり血液などは「自分のもの」とも「外のもの」とも分類出来ない、既存の枠組みの中に入れられないからこそ気持ち悪さを感じ、禁忌として扱われるのです。

似たようなことは血液の色についても言えると思います。あの赤紫というか暗い赤色というかの色は一言できっぱりと○○色と言うことができません。だからこそ気持ち悪いとか、気味が悪いといった印象を受けるのだと思います。

ここからが今回の本題です。僕はこの考え方を発展させて、恐怖や気持ち悪さというのは無知から来るものだと思っています。例を挙げましょう。

例えばお化け屋敷。お化け屋敷っていつどこから驚かせ役が来るのがわからないから怖い。例えば幽霊。幽霊は何故現れるのかわからないから怖い。幽霊はいつどこに現れるのかわからないから怖い。幽霊は何をするのかわからないから怖い。例えば暗闇。暗闇には何がいるかわからないから怖い。もしかしたら恐ろしいものが潜んでいるかもしれないけど知る術が無い。

 まぁ毒蛇とか高い崖とかそういうところから来る恐怖は本能的なところから来るものなので、全ての恐怖が無知から来るとは言えないですが...それでもその死からくる本能的な恐怖も死について詳しく知らないという無知から来ていると、説明することも出来ます。

 というわけで今回の題名に戻ります。昔の人は良いことを言っていますね。幽霊だって、いつどこにどうして現れてそして何をするのかさえわかってしまえば、それこそ枯れ尾花と同じぐらいの怖さ、全然怖くありません。昔の人と言えばアメリカ人のエマーソンが既に似たような考えを言っていたそうです。まぁ同じこと思いつく人は10000人いるらしいですからね...。(やってみる人100人、続ける人1人)学びというのは恐怖を無くすためにも必要なことなのかもしれません。

 

なんか初回ぶりにくっさいこと書いた気がする...。