少女終末旅行最終話考察(?)

※タイトルからも察せられますが、以下の記事は作品「少女終末旅行」(著:つくみず、漫画1~5巻が新潮社から出版)の大量のネタバレを含みます。ネタバレされたくない方はここでお引き返し下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで今回は少女終末旅行の最終話に関する話です。

2/12~13に旅行に行っていたんですが、車の中でやることが無さ過ぎて少女終末旅行のうちネットに残っている分を読み返していました。そこで最終話のある部分に気が付いていたく感動したので今回の記事を書くに至ったわけです。

今回話がしたいのはこのページです。

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出典:少女終末旅行第42回 

http://www.kurage-bunch.com/manga/shojoshumatsu/42/

というかこの部分です。

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この場面までのあらすじを簡単に説明すると、育て親のおじいさんにひたすら上を目指すように言われていたチトとユーリがついに都市の最上階についたはいいが、そこにはもう何も無かったというそういう場面です。

大事なのはここのセリフが「生きるのは最高だよね…」ではなく、「生きるのは最高だった(・・・)よね…」となっていることです。

この時点でチトとユーリは一つ下の基盤からかなり長い時間をかけて螺旋階段を登って最上層に到達しています。そしてもう全ての食料を食べきってしまっています。(実はこの後そうでは無かったことが判明するのですが)つまりもうこの時点で彼女達には生き残る可能性は残っていません。それがわかっているからこそ、「生きるのは最高だったよね…」と最高が過去形になっているのです。チトとユーリの具体的な年齢は作中では明かされていませんが、ユーリのバストがそこそこ大きい点から考えると、恐らく13~15歳程度ではないかと推測されます。その年代の子供がもう自分は死ぬしか無いと分かったうえで落ち着いて「生きるのは最高だったよね…」という発言をしたと考えると何か胸に来るものがあります。

この後二人は爆薬を取り出して自殺の準備を始めます。

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(出典:同上)

流石にこう淡々と自殺の準備を始められると哀れに思わずには居られません。

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(出典:少女終末旅行 第41回

http://www.kurage-bunch.com/manga/shojoshumatsu/40/

)

その前の回では、温かい食料を確保するために、チトの生きがいでもあった日記をチトが自分で破って燃やし始めますし、こうやって段々と人間が人間であることをやめて動物になっていく様を描かれると流石に心に来ますね...。でもこういう風に基本日常を描いておきながら時々シリアスで刺してくる少女終末旅行の空気が僕は好きです。

実はこの後におじいさんがどういう気分で2人を旅に送り出したかなども考えていたのですが、考えながら酷い勘違いというかあえて自明なことを無視していたことに気づいたのでやめます。

 

わりかし僕はこういう考察に関しては、流石に制作側もそこまで考えていないだろうという風に少し見下す風潮があったのですが、案外やってみると楽しいものですね。あとこれは僕の勝手な持論なのですが、想像や妄想は現実逃避することでストレスを軽減するのではないかと思ってます。なので妄想が増えてくるとあぁ自分疲れてるんだなぁ...という風に思うようにしてます。

なんかまぁ全体的に少女終末旅行ステマっぽくなってしまいましたが、まぁそれで良いです。みなさんも少女終末旅行買って読みましょう。(円盤全部買えるほどのお金が無いのが悔しい)

嘘松に関する一考

今回はタイトル通り嘘松に関する話です。

みなさん嘘松って聞いたことありますか?と言ってもまぁ多分結構な人はどこかで聞いたり見たりしたことがあるのではないでしょうか。簡単に言うとある人が自分の経験、友人から聞いた話など、「実際にあった話」として語られれている話を、「作り話、嘘」だと指摘することですね。以下嘘松の定義をこれとして話を進めていきます。

 

今回の話の発端は十六浪咲夜(@IzanamiSakuya)のツイートです。

 

 この先は僕の日頃の感想を軸に話が進むのでもしかしたら同意出来ないかもしれません。その時はごめんなさい。

 

この開き直りを見て僕は正直かなり腹が立ちました。と共に不思議に思ったことがあるのです。

僕は日頃から嘘松という指摘に対して正直いらいらしていたのです。例えば声優ラジオなどで読まれるメールに対して嘘松というコメントがなされるのをそこそこな頻度で目にします。その度に僕は思うのです。確かにメールで読まれるためには多少話が派手な方が良いし、時には嘘も混ざってくるかもしれない。でも別に嘘だって良いじゃないか、本当かどうかわからない話を嘘だ、と決めつけるのは野暮だと。

一方でこのツイートを見た時には逆に開き直った本人に対してかなり腹が立ちました。そもそも十六浪咲夜なんて名前を先に決めてから設定を練ったような名前ですし、最初から作り話なんだろうな、しょうもないなぁと思っていました。それでも本人が嘘でした~などと開きなおったらそれはすごく腹が立ったのです。

この2つの嘘松に対する態度の違いは何が理由なのでしょうか。僕なりに考えた理由は、やはり「嘘をつく」というのは悪いことであるとされているのではないかということです。

 

詳しく説明します。Twitterや声優ラジオへのメールなどは個人が本当にあったことを語る場所として想定されている、と少なくとも僕は思っています。なのでそこで嘘をついてふぁぼを稼いだり、メールに読まれようとする行為は少なくとも悪と見なされます。だからこそ十六浪咲夜は非難されるべき存在となります。彼の存在価値は十六浪の浪人が現実に存在すると思わせること、ただそれだけでした。だって架空の十六浪、なんて全然面白く無いですからね。それに価値を持たせるには十六浪を中心としたストーリーを展開して小説にでもする必要があります。

同じ様な理由で声優ラジオのメールへの嘘松、に対しての不快感を説明できます。そこでの嘘松とは、嘘だという決定的な証拠も無いのにメールを嘘だとしてメール投稿者を悪者にしたて上げる行為です。本人は潔白かもしれないのに悪者にされるのは、流石に傍目から見ても腹が立ちますよね。

 

というのが今回の嘘松に関する考察です。まぁ嘘松がいつ生まれたのかは知りませんし、経緯とかそういのに興味がある人はまた自分で色々と調べてみてください。今回の話はちょっと「お客様は神様」に通ずるところがあるなぁとも思いました。普段の何気ない日常会話とかツイートでも話を面白おかしくするために、多少話を盛ったり嘘を混ぜ込んだりしてもばれない範囲であれば許されるでしょうし、それを嘘ではないか、と咎める行為は野暮なものとみなされます。一方で話した本人が嘘で何が悪い!と開き直るのはまた別の問題です。社交辞令とかでも多少の嘘は必要ですし、余命1年のがん患者にそれを告げるかどうかなど、嘘の倫理というのは非常に難しいですが、まぁ嘘と上手く付き合っていきたいですね。

 

https://twitter.com/IzanamiSakuya/status/950371618705981440

https://twitter.com/IzanamiSakuya/status/950371618705981440

寒い日に飲みたい飲み物

前回はなんか調子乗ってイキった話をしてましたが、今回は趣向を変えて、飲み物の話です。

 

最近、ひそかに困っていることそれは良い飲み物が無いことです。

夏の時であれば、美味しい清涼飲料水なんて結構たくさんありますし、基本的に飲み物に困ることはありません。ちなみに僕は炭酸だと三ツ矢サイダーが好きです。コカ・コーラほど甘くありませんし、爽やかなほんのりとした甘さが好きです。あとしょうが好きなのでジンジャーエールも好きです。果物系のジュースだとアップルジュースが好きです。夏にガンガン冷房が効いた部屋で飲む清涼飲料水、甘美な響きですね。

しかし、冬となると話は変わります。寒いので清涼飲料水はそんなに美味しくありません、というわけで温かい飲み物が欲しいわけですが、最近はお湯ばっか飲んでいます。残念ながら僕はそんなに温かい飲み物のバリエーションを知りません。この前試しにココアを作ってみましたが、あれは結構美味しかったですね。前はほっとレモン、ほっとゆずかりんとか好きで飲んでたんですが、いつの間にか見なくなって、家にも置かれなくなりました。

 

というわけで寒い時期に飲みたい美味しい飲み物があったら教えてください。

 

 

あとこういうの書くの楽しい。

雑感

以下の文章は思考を整理せず、だらだらと書き綴った文章で、しかもそこそこ長文です。そこのところをご了承ください。

 

某のTwitterを見て、久しぶりに1時間ほど考え続けたことがあったので、試しに自分の考えを文字に起こしてみようと思ってこの文章を書いている。

発端は昼頃に某のTwitterを見て、結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁと思ったことだ。この際某というのは気にしないで欲しい。本人(鍵垢)にもこの話を載せていいかの了解も取っていないので、あまりこういうことをするのは良くないとわかっているのだが。まぁこの垢のFFの人は彼とは繋がっているはずだからそのあたりは大丈夫だろうと勝手に思っている。まぁどういう話か至極簡単にまとめると、要するに片思いをしていた女の子が他の男の彼女になった、みたいな話だ。大事なのは、その話を読んだ時の僕の最初の感想が「結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁ」というものだった。という事実だ。

そういう感想を思った後に、僕はどうしてこんなことを考えたのだろうと思った。だって彼だってそういう未練がましさ、みたいなものだって持ったっていいじゃないか。

思い当たったのは、彼が僕の中で「ある種」の人間として見られているという事実だった。ある種の人間、というのはつまり、すごく数学が出来る人間である。

中3の時、筑駒のゼミもどきみたいなもので僕は某IMO常連者と同じグループに入れられた。そしてそれはそれは本当に酷くこてんぱんにされた。彼の言ってる事は1nmもわからなかったし、理解できなかった。そして僕は彼が苦手になった、もう関わらないでおこうと思った。

多分それからだろう、僕は大学以降の数学というものに苦手意識を持ち続けているし、(受験数学はまた別だった)それが好きな人とは避けた方が良い、物理や数学という点において、彼らと自分が同じ場所にいるなんて間違っても思ってはいけない、という意識は未だに持ち続けている。だから、某がIPhOで金を取ったことは少なからず自分に衝撃も与えた。また知ってる人がどこか遠いところに行ってしまった。自分は、彼が自分と対等だと勝手に思い込んでいただけなのだと。

どういうことかというと、多分彼の事を「まだ人間なのか」と思ったのは、僕は心の中で「そういう」人々をある種、神格化、というかどこか人間離れした存在でいて欲しいと望んだから、「結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁ」という感想を抱いたのだと思ったのである、と僕の中では結論付けられた。

そしてここまで来て、思考は全く別のところに飛ぶ。(ここから先は全く違う話になります)

今まで僕の思考を形成していたのは、いわゆる「メタ思考」とかいうやつだ。なぜ自分はこう思ったのか、というメタ的な視点の思考という意味でメタ、を使っている。間違っていたらごめんなさい。

僕は考えごとをするときに常に“メタ思考”が働く気がする。相手はこの言葉をどうして発したのか、何がしたいのか。自分がこう発言するとどう思われるのか。

この種のメタ思考はまだ良い。ただ厄介なのは、というか僕が勝手に厄介だと思うのはこの文章の冒頭にも出てきた、自分に対するメタ思考である。なぜおまえはそうしたのか、何故お前はそう考えるのか。

この種のメタ思考は常に自己に対する批判である。今だってこういう文章を書きながら、本当はこれを見て欲しいだけじゃないのか、こういう文章を書ける僕すごい、と思われたいだけじゃないのか、ただの自己顕示欲の塊じゃないかとかのメタ思考は働く。

確かに、そのような自己顕示欲があることは認める。だって聖人君子じゃないし。メタ思考はもちろん自己批判という点では優秀だ。しかし、メタ思考がある限り、僕は欲求のダブルバインドから逃れられない。何々したい!という欲求を持ちながら、メタ思考は常に自己満足的な欲求だとその欲求を押さえつけにかかる。そして、メタ思考が働く限り僕は自分のエゴを見続ける羽目になる。そんなのは嫌だ。

僕にはこのメタ思考に対する対処方法がわからない。決してメタ思考は気分の良いものではないし、そして自分によって暴かれる自分のエゴなんて一番見たくないものだ。どうやったらこのダブルバインドから逃れられるのだろうか。

そこで、そもそもメタ思考とは何のために存在しているのかと考えた。そして思いついたのは、メタ思考とは、自分で実際に行動に及ぶ前に、他人にどう見られるのかというリハーサルを行うための客観視ではないかという仮説である。

もしこの仮説が正しければ、対処法は思いつかないではない。それは自己を絶対的に確立するという方法だ。どういうことかというと、人間、人からの目線を気にしすぎるたちがある。つまり、自分を相対的な人物と置いているのだ。なら自己の立ち位置を、他人の中にいる自分、ではなくて、他人に依存しない、絶対的な自己さえ確立してしまえば、幾分楽になるのではないか。

ここまで来て、僕は東大に着いてしまい、考えるのは終わっている。この文章を書いてる今でも、メタ思考、そして自分のエゴを見続けることに対する対処法は思いついていない。