陰キャは陽キャの夢を見るか?

以下の記事は「響け!ユーフォニアム」のアニメ1期、2期、「リズと青い鳥」、「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」に関する重大なネタバレを含みます。見ていない人は早く見て下さい。

 

 

 

 

平成が終わり令和が始まりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。4/27に「やがて君になる」の7巻が発売されて、次の巻の発売が11月だと予告されてとても待ち遠しいです。まぁそれは置いておいて、先日、響け!ユーフォニアムのアニメの最新作が劇場版として公開されました。まぁ早速見に行ったのですが、それを通して色々雑念を生んでいたうちに形になりそうなものが出来たので残しておこうと思ってこれを書いています。話はそれますが、忙しくなって精神を不安定化させる余裕も無くなって最近このブログもどきを更新するモチベが少なくなってきたのを感じます。

 

更に話はそれますが、2月に「ファーストマン」という映画を見に行ったのですが、とても良かったのを覚えています。3月の春休みはコンテンツを出来るだけ消費しようとAmazonPrimeでアニメと映画を見ていたのですが、それで「インターステラー」を見て、良い映画というのは本当に良いなぁとも思いました。なので興味のある映画はなるべく映画館に見に行こうと思いました。(小学生並みの感想

 

それで話は響け!ユーフォニアムに戻るのですが、この作品を見て僕は自身の中高時代を顧みて、もっと中高時代に部活に励めば良かった...だとか中高時代をもっと有意義に過ごせば良かった...と今思うと無為に過ごしてしまった中高時代に思いを馳せて後悔の念に駆られていました。

でも、ちょっと考えてみてみると、あのストーリーに関わってくる中心的な登場人物というのは主に実力者、必然的に経験者で構成されています。例えば主人公である黄前久美子は小学生の頃から姉の影響でユーフォニアムをやっていますし、高坂麗奈は言わずもがなです。鎧塚みぞれ、傘木希美も中学の頃から吹奏楽をやっています。唯一、まともにストーリーに出てくる中で高校まで未経験者と言えば加藤葉月と中川夏紀ですが、アニメでは彼女らはそもそも大会のメンバー入りしていませんし、加藤葉月に関して言えば、その他の中心メンバーに比べれば物語に関わってくる度合いはほとんどありません。(そして、ここは少し大事だと思うのですが、彼女は2年生になっても、大会メンバー入りすることは出来ていません。)そして、劇場版に出てくる主要1年生キャラ3人、彼ら彼女らもそれなりの実力を持つ経験者として登場します。まぁ、北宇治高校吹奏楽部は全国大会を目指している、というストーリーである以上実力主義になるのでそうなってしまうも仕方が無いとも思いますが。

そしてこれは一応部活動ものであるので、練習することで成長する、といった要素があってもいいと思うのですが、中川夏紀を除けば努力が実るケースというのはほとんど出てきません。そして彼女がメンバー入りを果たすのも劇場版を待ってからです。(しかも久石奏の話があったので、その割に彼女のメンバー入りは久石奏の話の影に隠れてしまった様にも思えます。)彼女は1期で努力をしますが、それも間に合わず、2年生でメンバー入りは果たせません。(劇場版ではユーフォが3人であることを考慮すると、この時のユーフォ枠が2人で、経験者、田中あすか黄前久美子、が既に2人いたから落ちたというのは理由にはならず、明らかに原作というか脚本は中川夏紀を故意に落としています。)もしも黄前久美子らが3年生になって全国で金賞を取ったら(劇場版で全国落ちした事を考慮すると最終的にこうなるオチが待っていても全然不思議では無いと思うのですが...)卒業生として中川夏紀は自分が後1年遅れて吹奏楽部に入部していれば...と後悔というか嫉妬というかそういう念を抱くのではないのだろうか、思えてなりません...。自身がメンバー入り出来なかった2年生の時には、北宇治高校吹奏楽部は全国大会出場という夢を果たしてはいるので尚更その念は強くなっても仕方が無いように思えます。他の例も豊富にあり、例えば1期の中世古香織高坂麗奈の対立は印象的で、まぁストーリー展開上仕方が無いと思えますが、一応3年間努力してきた中世古香織に対して、高坂麗奈は圧倒的な実力と才能で勝利し、トランペットのソロを勝ち取ります。リズと青い鳥では、鎧塚のぞみの圧倒的才能を前に、努力をしてきたはずの傘木希美はついていけず、結局として彼女らは依存関係を解消する、という展開になっています。また、劇場版においても努力というのは重要なロールを占めています。先に加藤葉月の例を出しておくと、彼女に関しては合間合間でチューバの練習をしているシーンは出てきますが、結局劇場版のストーリー展開には全く関わって来ません。ストーリーに関わるのはメンバー入りした実力者達ですね。(一応この練習描写があるので、次回作があるとしたら3年生でようやくメンバー入り、感動!みたいな描かれ方をするのでは、と予想しています。)また、黄前久美子によって自身の価値観を変え、中学の頃の様に努力をしようと奮起した久石奏ですが、結局劇場版で北宇治は全国出場を果たせず、彼女の努力は報われません。思うに脚本はわざと北宇治を全国出場させなかったのだと思います。知人がTwitterで言っていて、印象に残っているのですが、必ず報われる努力というのは価値がありません。だってやれば報われるならば誰でもやりますから。一方でその努力が報われないかもしれない、努力がただの無駄になってしまうかもしれない、というリスクを抱えた上でする努力というのはその点において価値というか貴さを持ちます。そういう意味で言えば、響け!ユーフォニアムでは、努力がある程度描写されている(まだ近くの公園でラジオ体操をしている時間の中登校してきて練習する久石奏)以上、努力が順当に報われるよりかはその努力が裏切られることによって、努力がより一層価値を持つ、貴いものとして感動を生むのではないのでしょうか。だからこそ北宇治の全国落ちは、その後の主人公が3年生となった時の話の布石とする上でも、故意というか必然のものだったように今となっては思えます。

(ここの映画の最終シーンで高坂麗奈は泣きましたし、久石奏も泣きました。でも一方で黄前久美子は泣かなかったというのは、彼女が北宇治で吹奏楽部に入部した理由、中学3年の時のコンクールで泣けなかった、を考えるとすごく何か意味があるものではないのか、と僕は思えます。でも一方で、田中あすかがあそこで泣くかと言われたら泣かない気もします。)

じゃあ練習だとか努力だとかそういうのがあまり描写されない一方で、響け!ユーフォニアムで主に描写されているのは何かと言えば、それは人間関係です。1期では、黄前久美子が入学する前の3年生とやる気のあった1年生が対立していた悪影響の解消、そして中世古香織高坂麗奈のソロを巡る部内の対立。2期では傘木希美と鎧塚みぞれの関係と田中あすかという人物について。リズと青い鳥では、傘木希美と鎧塚みぞれの関係。劇場版では新入生2人、鈴木美玲と久石奏という人物について主に描写されています。劇中で主に描かれている北宇治というのは、部員全体の努力というよりかは、部内のいざこざを解決して部としての結束を高めた、という要素が大きいでしょう。つまり人々が一体となって何かの目標を目指すという、いわゆる青春や人間関係が描かれています。

 (話は変わるのですが、ここでオタクではなく陰キャという語を使用しているのは,

オタクは特定の嗜好や趣味を持つ人物を表す語として規定されている一方、陰キャは特定の思考や性格を持つ人物を表す語として規定されている、みたいな話を友人から聞いて、自分も使い分けの必要性を感じたので陰キャという語を使用しています。)

 

実際に僕が、響け!ユーフォニアムを見て中高時代を振り返って後悔するようなことと言えば、やはりその様な「青春」を送って来なかった、ということになります。自分の中高時代の部活での実力を思い出すと、2年生までの加藤葉月側、物語の舞台にあがってこれない側の人間だったし、努力もせずそうあり続けたから、自分には送れなかったなとも思っています。ですが、あの時きちんと部活を続けていれば…努力していれば…と響け!ユーフォニアムを見て思わずにはいられないのです。

(コンテンツでラブコメや百合作品を鑑賞する理由として、現実で為しえなかったことを代わりにコンテンツで消費する「代償行為」である、とTwitterで主張する人が複数いたのを覚えています。響け!ユーフォニアムはまさに僕のそれに当たる気がします。)

でもここで忘れてはいけないものがあります。そう、文化祭を始めとする行事、特に高3文化祭です。この行事では確かに結束して高3文化祭という目標に向かってはいなかったでしょうか。それ以外でも音楽祭などの行事は無かったでしょうか。客観的に見て、それらの行事は「人々が一体となって何かの目標を目指すという、いわゆる青春」に当たると思います。でも僕はこれを思い出して、少しでも、僕が響け!ユーフォニアムのような青春を過ごしたと言う事が出来ないのです。もちろん高3の文化祭が実際の部活に比べて期間が短い、明確な目標が存在しないなどの差はありますが。しかしながら現実に同じ部内の人間がこのアニメの中でしているような人間関係をしていたら、恐らく良い感情は全く持っていなかったことでしょう。僕が恐れているのは、そもそも僕には、このように現実の出来事を、そのような青春や人間関係といったものとして実感する感性を備わっていないのではないか、だからこそ今このような性格でここにいるのではないか、ということです。

手に入らないものを、それでもコンテンツという形式で消費することでそれを望み続けるというのはさすがに救いが無さすぎはしませんか?