輪廻転生(来世は何になりたいですか?)

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さて

どうやらオタクは現世で徳を積んで来世で美少女に生まれ変わるのが好きらしい。Twitterで検索をかけるとぞろぞろ出てくる。上の検索だと流石に1週間に1件程度だが、「来世は美少女」だけだと10分に1回とかそういうペースでツイートが出てきて流石にビビった。(9/30,20:00現在)

別にそういうオタクをあげつらって笑いを取りたいわけではない、確か高2か高3の時に自分も似たようなツイートをしていた記憶がある。

まぁそんな感じでこの前電車に乗ってる時にふと考えていたのだが、ちょっと思ったのだ、あれ?現実的に考えてそれは意味が無くね?と

皆さんは前世の事を覚えているだろうか。

とまぁなんか怪しい宗教勧誘が始まりそうな一文であるが、まぁ多分一部の方を除いて多くの方は前世の事など覚えていないはずである。前世どころか大半の方は赤ん坊の頃の記憶もほとんど残っていないはずである。え?覚えてないのは僕だけだって?それはちょっと悲しいなぁ...。前世の事を覚えていないのであれば、来世の自分も恐らく現世の自分の事を覚えていないはずである。となると、もしも輪廻転生のシステムが実際に現実にあると仮定したとしても、当たり前だけど現世で頑張って徳を積んで無事来世で美少女になれたとしてもその恩恵を受けるのは現世の自分ではない。前世までの自分の記憶を一切失っている来世の美少女になったはずの自分である。でもだ、前世までの記憶を一切失っている自分をそれをもはや「自分」と呼べるだろうか。夜に寝て、朝目が覚めた後の自分との連続性があるかどうかとかそういう話とは全然次元が違う。トラックに轢かれて異世界転生してチート系能力を得る主人公でも、まだトラックに轢かれたこととか前世の自分が冴えないやつだったことは覚えている分まだマシだ。前世と一切連続しているところが無い分それはもはや赤の他人では無いだろうか?

少し話を変える。宗教自体どうにもならない現世を変えるほどの力は無いため、ほとんどの宗教は現世における一般的幸福を諦めて、(おいお前、一般的な幸福が~とかメインストリームが~とか言ってるお前、本当に一般的幸福は諦めたのか?)死後の世界で幸せになろうという主張が多く、従って死後の世界について説いている。そこで輪廻転生について簡単に調べてみると、(NAVERまとめとWikipediaを10分だけ参照することを簡単に調べると、と言うことを許されるのであれば)どうやら輪廻転生という概念を持つ宗教自体珍しいらしい。キリスト教は死んだ後は復活の日まで土に埋まって待っており、ラッパの音で一斉に目覚め、最後の審判を受けて天国か地獄かに分けられるという。というわけで肉体が消えてしまってはそもそも審判を受けられないため、向こうでは火葬は厳禁であり、埋葬は基本的に土葬である。(埋葬と土葬って土に埋めるからどっちも同じじゃね?と思ったのだが、土葬を指す場合と、火葬風葬土葬など一般に遺体の処置の方法全般を指す場合があるらしい)イスラム教とユダヤ教も死後の考え方は基本的に同じである。というのもこれら3つの宗教の天国・地獄という概念はゾロアスター教の考え方が起源になっているという説もある。

東洋に目を向けてみる。日本でも同様に死んだらあの世に行くという概念がある。ところが仏教とヒンドゥー教だけは特異的に輪廻という概念を持つ。(特異的にと言ったが、この2つの宗教の信者の数を足し合わせたらなかなかな数にはなる。)ヒンドゥー教では上でそもそも無いのでは?書いたような永続的な主体が存在すると主張し、一方で仏教では死と共に主体的な意識は消滅すると主張しているらしい。なら猶更何故誰がために徳を積むのか不思議である。そんな宗教が社会に受け入れられ、多くの人が信じているのだから宗教の「大きな物語」のための側面は偉大なのだろうか?それとも為政者にとって宗教というのは社会を安定させるために便利なのだろうか。

余談だが、このWikipediaから引用すると「輪廻転生は日本では伝統的な死生観と考えられることが多いが、先祖が輪廻転生するなら祖霊は存在せず、先祖祭祀は無意味であるため、この2つは矛盾する面がある。」とある。確かにその通りで笑ってしまった。

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転生 - Wikipedia

話を戻そう。主体の意識的な連続が無いのであれば、どうして人々は来世を信じるのだろうか。そして来世の自分のために徳を積むだろうか。これは一般的に言われていることだがやはり、死というものを克服するためではないかと思った。

死というのは生きとし生けるもの全てに必ず、不合理にも、平等にも訪れる。自意識を持つ人間であればどんな人間も死の恐ろしさから逃げることは出来ない。もしも死んで、そこで自分が完全に消滅してしまうというのはあまりにも空しい。自分が存在した証拠が世界から完全に消滅することは死よりも恐ろしいことと語られる。「確認されない死のなかで」(皆さん覚えているだろうか)という文章の中で、人は死ぬ前に自分の名前を残したがる、というのはとても印象的で今でも覚えている。

ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、〈ひとりひとりの死〉がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名で呼ばれなければならないものなのだ。

「みじかくも美しく燃え」という映画を私は見なかった。 だが、そのラストシーンについて嵯峨信之氏が語るのを聞いたとき、不思議な感動をおぼえた。映画は、心中を決意した男女が、死場所を求めて急ぐ場面で終るが、最後に路傍で出会った見知らぬ男に、男が名前をたずね、そして自分の名を告げて去る。

私がこの話を聞いたとき考えたのは、死にさいして、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、〈彼が〉その死の瞬間まで存在したことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局は〈彼として〉死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証しであると知ったとき、人は祈るような思いで、 おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。 いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、〈一個の〉まぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。

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(死ぬ前でさえ承認欲求が残るとは、承認欲求は何とも恐ろしいものなのだろうか。)

何か自分が現世に存在したという証拠は欲しいし、さもなければ死んだ後も自己が存在していて欲しい、だから来世というのは特別に魅力的な概念なのだろう。来世さえあれば死など全く怖くない。(話が少しそれるが、以前このブログの別の記事でも書いたが、死が恐ろしいのはやはり死んだ後に何があるかわからないのであろう、なら死への恐怖を和らげるだけでも来世という概念は十分でも魅力的では無いだろうか。)

 前世・来世というのは本当に魅力的で、何と水素水もびっくりな前世療法という療法すらあるらしい。

前世療法 - Wikipedia

この記事のなかに書いてあったが、前世の記憶に関してはなかなか面白い次のような話もある。

 前世記憶について、それを思い出す人の前世は大抵、国王や貴族など高貴な身分であり、召使などの低い身分のものであることはない、といった批判がある。そうしたケースでは、前世記憶は願望が投影された虚偽記憶である事になる。ジョン・レナードは「中でも最も人気の高いのはクレオパトラで、男性の場合は大抵、古代エジプトのファラオという形を取る」と批判している。霊媒であったダニエル・ダングラス・ホームは「私は12人のマリー・アントワネット、20人のアレキサンダーに拝謁を賜っているが、過去生で街角の只のおじさんだったという人には一度もお目にかかったことがない」と揶揄している。

 人とはなかなか救い難い存在であるようだ。

アーメン