寒い日に飲みたい飲み物

前回はなんか調子乗ってイキった話をしてましたが、今回は趣向を変えて、飲み物の話です。

 

最近、ひそかに困っていることそれは良い飲み物が無いことです。

夏の時であれば、美味しい清涼飲料水なんて結構たくさんありますし、基本的に飲み物に困ることはありません。ちなみに僕は炭酸だと三ツ矢サイダーが好きです。コカ・コーラほど甘くありませんし、爽やかなほんのりとした甘さが好きです。あとしょうが好きなのでジンジャーエールも好きです。果物系のジュースだとアップルジュースが好きです。夏にガンガン冷房が効いた部屋で飲む清涼飲料水、甘美な響きですね。

しかし、冬となると話は変わります。寒いので清涼飲料水はそんなに美味しくありません、というわけで温かい飲み物が欲しいわけですが、最近はお湯ばっか飲んでいます。残念ながら僕はそんなに温かい飲み物のバリエーションを知りません。この前試しにココアを作ってみましたが、あれは結構美味しかったですね。前はほっとレモン、ほっとゆずかりんとか好きで飲んでたんですが、いつの間にか見なくなって、家にも置かれなくなりました。

 

というわけで寒い時期に飲みたい美味しい飲み物があったら教えてください。

 

 

あとこういうの書くの楽しい。

雑感

以下の文章は思考を整理せず、だらだらと書き綴った文章で、しかもそこそこ長文です。そこのところをご了承ください。

 

某のTwitterを見て、久しぶりに1時間ほど考え続けたことがあったので、試しに自分の考えを文字に起こしてみようと思ってこの文章を書いている。

発端は昼頃に某のTwitterを見て、結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁと思ったことだ。この際某というのは気にしないで欲しい。本人(鍵垢)にもこの話を載せていいかの了解も取っていないので、あまりこういうことをするのは良くないとわかっているのだが。まぁこの垢のFFの人は彼とは繋がっているはずだからそのあたりは大丈夫だろうと勝手に思っている。まぁどういう話か至極簡単にまとめると、要するに片思いをしていた女の子が他の男の彼女になった、みたいな話だ。大事なのは、その話を読んだ時の僕の最初の感想が「結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁ」というものだった。という事実だ。

そういう感想を思った後に、僕はどうしてこんなことを考えたのだろうと思った。だって彼だってそういう未練がましさ、みたいなものだって持ったっていいじゃないか。

思い当たったのは、彼が僕の中で「ある種」の人間として見られているという事実だった。ある種の人間、というのはつまり、すごく数学が出来る人間である。

中3の時、筑駒のゼミもどきみたいなもので僕は某IMO常連者と同じグループに入れられた。そしてそれはそれは本当に酷くこてんぱんにされた。彼の言ってる事は1nmもわからなかったし、理解できなかった。そして僕は彼が苦手になった、もう関わらないでおこうと思った。

多分それからだろう、僕は大学以降の数学というものに苦手意識を持ち続けているし、(受験数学はまた別だった)それが好きな人とは避けた方が良い、物理や数学という点において、彼らと自分が同じ場所にいるなんて間違っても思ってはいけない、という意識は未だに持ち続けている。だから、某がIPhOで金を取ったことは少なからず自分に衝撃も与えた。また知ってる人がどこか遠いところに行ってしまった。自分は、彼が自分と対等だと勝手に思い込んでいただけなのだと。

どういうことかというと、多分彼の事を「まだ人間なのか」と思ったのは、僕は心の中で「そういう」人々をある種、神格化、というかどこか人間離れした存在でいて欲しいと望んだから、「結局人間というのは、人間であることから逃れられないのだなぁ」という感想を抱いたのだと思ったのである、と僕の中では結論付けられた。

そしてここまで来て、思考は全く別のところに飛ぶ。(ここから先は全く違う話になります)

今まで僕の思考を形成していたのは、いわゆる「メタ思考」とかいうやつだ。なぜ自分はこう思ったのか、というメタ的な視点の思考という意味でメタ、を使っている。間違っていたらごめんなさい。

僕は考えごとをするときに常に“メタ思考”が働く気がする。相手はこの言葉をどうして発したのか、何がしたいのか。自分がこう発言するとどう思われるのか。

この種のメタ思考はまだ良い。ただ厄介なのは、というか僕が勝手に厄介だと思うのはこの文章の冒頭にも出てきた、自分に対するメタ思考である。なぜおまえはそうしたのか、何故お前はそう考えるのか。

この種のメタ思考は常に自己に対する批判である。今だってこういう文章を書きながら、本当はこれを見て欲しいだけじゃないのか、こういう文章を書ける僕すごい、と思われたいだけじゃないのか、ただの自己顕示欲の塊じゃないかとかのメタ思考は働く。

確かに、そのような自己顕示欲があることは認める。だって聖人君子じゃないし。メタ思考はもちろん自己批判という点では優秀だ。しかし、メタ思考がある限り、僕は欲求のダブルバインドから逃れられない。何々したい!という欲求を持ちながら、メタ思考は常に自己満足的な欲求だとその欲求を押さえつけにかかる。そして、メタ思考が働く限り僕は自分のエゴを見続ける羽目になる。そんなのは嫌だ。

僕にはこのメタ思考に対する対処方法がわからない。決してメタ思考は気分の良いものではないし、そして自分によって暴かれる自分のエゴなんて一番見たくないものだ。どうやったらこのダブルバインドから逃れられるのだろうか。

そこで、そもそもメタ思考とは何のために存在しているのかと考えた。そして思いついたのは、メタ思考とは、自分で実際に行動に及ぶ前に、他人にどう見られるのかというリハーサルを行うための客観視ではないかという仮説である。

もしこの仮説が正しければ、対処法は思いつかないではない。それは自己を絶対的に確立するという方法だ。どういうことかというと、人間、人からの目線を気にしすぎるたちがある。つまり、自分を相対的な人物と置いているのだ。なら自己の立ち位置を、他人の中にいる自分、ではなくて、他人に依存しない、絶対的な自己さえ確立してしまえば、幾分楽になるのではないか。

ここまで来て、僕は東大に着いてしまい、考えるのは終わっている。この文章を書いてる今でも、メタ思考、そして自分のエゴを見続けることに対する対処法は思いついていない。